ジョン・F・ケネディ、マリリン・モンロー、あるいはヘレン・ケラーと彼女の家庭教師……。ジョージ・ジンベル氏がこれまでにレンズを向けた対象は、1950年代の世界的著名人から、2002年のモントリオールでみつけた名もない人々の小さなドラマに至る。
 半世紀以上にわたって、“ドキュメンタリー・フォトグラフィー”を追求。現在、彼の作品は、ニューヨークの現代美術館をはじめ、各地の美術館や博物館、ギャラリーに常設展示されている。
 確実なテクニックに支えられた、ダイレクトなイメージ。華やかに仕掛けられたシーンの中にも、ごくごく普通の人々の生活にも、それぞれ輝く瞬間がある。ジンベル氏は、そういう一瞬をとらえては、数え切れないフィルムに記録してきた。そして、撮ったそのときの印象を大切にしながら、美しい紙に焼き付ける作業を、いまも毎日、ずっと続けている。
 「写真」という技術が生まれて、百数十年。その決して長くはない歴史の60年を、レンズを通してみつめてきた彼に話を聞いた。

--- 写真を撮ることになったきっかけから聞かせてください。

「初めて撮ったのは写真ではなく、(ムービー)フィルムでした。スーパー8でね、13歳のときです。でも、いろいろ面倒なことが多くて、まずプロジェクターがいるし、観客も必要だし、手間がかかるので写真に転向した。1945年のことで、最初は4×5をまるで35ミリのカメラのようにして使っていたね。(笑)でも、それからしばらくして実際に35ミリを使い始めて、自分にはこれだ! と思いました」

--- 写真を職業にしようと決めたのは?

「ニューヨークのコロンビア大学に在学中、2年目を終えた1949年の夏に、暗室作業のサマー・コースをとったんです。私はマサチューセッツ州の出身で、それまでの夏は、毎年、里帰りをしていたんだが、その夏は、自分がフリーランスのフォトグラファーとしてやっていけるかどうかを試したいと考えて、ニューヨークに残った。撮りたいものがたくさんあったし、自分の力を見極めたかった。そして、撮った写真をあちこちに売り込みました。同時にそのサマー・コースに参加したことで、初めてきちんとプリントもできるようになった。それまでは、きれいに焼けることもあれば、どうしようもないこともあったが、それがきちんとコントロールできるようになった。フリーでやっていけると思ったのは、この夏ですね」

--- 同じように写真家を目指す人たちと、ともに腕を磨きあった時代もあったそうですね。

「コロンビア大学でのある友人は、この経験が彼の人生を変えたと言っていましたが、私たちは授業や他の活動が終わってから、夜中じゅうふたりで写真を焼いて、朝別れるということをくり返しました。"Midnight to Dawn Club"といってね。いつ勉強していたのかというくらいだったが、ちゃんと勉強もしていた。コーヒーを、実にたくさん飲んだね。(笑)」
「それから、ニューヨークで最初のエージェンシーのひとつ、PIXに参加したことがとても大きい。ここには若いフォトグラファーが大勢いて、みんな真剣だったし、熱心だった。そこで強く言われたのは、競争をするなということ。他のフォトグラファーより良い作品を撮って“勝つ”とか“負ける”とかいうことを考えるな、と。そういう競争意識は、決して良い作品を生みはしない。競争はせずに批評しあい、刺激しあって、後に有名になった写真家が何人もいます。」

--- その後はニューヨーク・タイムズをはじめ、新聞・雑誌などのメディアで活躍されました。

「ニューヨークは、素晴らしかったね。常にいろんなことが起こっているし、一生懸命やれば、仕事は入ってきた。でも、人々が言うように、簡単なことではなかったよ。あのころは、仕事があふれていた黄金時代だとか言うんだが、それは違うと思う。私が若い人に言うのは、『ふたりか3人、心から君の仕事を気に入ってくれる人をみつけなさい。必ずそこから広がっていく』ということ。これは、本当にそうだと思う」

--- 「ドキュメンタリー・フォトグラフィー」についてうかがいたいのですが。

「まず、ドキュメンタリー・フォトグラフィーと、フォト・ジャーナリズムを混同しがちだが、このふたつは違う。人は、私のことをフォト・ジャーナリストと呼んだりするが、私自身は違うと思っている。なぜかというと、私は“ニュース”を撮ることに興味はなかったし、いまもない。たとえ政治家を撮っていても、です。たとえば、マリリン・モンローの写真を撮ったとき、みんなはなぜすぐにプリントして新聞や雑誌に載せないのかと不思議がったが、私の写真はもっと、自分なりのテーマに基づいた作品であり、ニュース性を重んじたものではないんです。私のマリリン・モンローの写真には、同じときにそこで彼女を撮影していた他のカメラマンたちが写っている。普通は、彼女だけを撮るでしょう」

--- 写真を撮るときは、対象となるものや瞬間を「探す」のですか? それとも、向こうからチャンスがやってくるのを待つ感じですか?

  「ストーリー性のある特別なタイミングは、ギフトですね。写真家がカメラを持っているときは、意識が異常なレベルに達しています。フォトグラファーをハンターだと言った人がいるが、確かにそうだと思う。私もかつては、そうだった。でも、いまは、ハンターではなくオブザーバーですね。眺めていて、大きな事件ではなく小さな出来事をみつけては、撮る」
「この数年は、一台のカメラしか使っていない。古いライカで、実は壊れているんだ。(笑)いまは、写真を撮るときは、それにワイド・レンズをつけて、露出計も何も持たずに、フィルムを4,5本持って、出かけます」

  ジンベル氏の一家は、70年代のはじめにカナダへ移住。プリンス・エドワード島で牧場を営むこと9年の後、トロントを経てモントリオールに移った。移住から数年後にはカナダ国籍も取得している。
 ニューヨークでの生活を離れ、牛や豚や鶏に囲まれたP.E.I.での暮らしを選んだ理由は、ベトナム戦争に強く反対していたことと、4人の子供たちのためだったという。「子供たちは、徴兵されるにはまだ若かったが、反対運動をする年にはなっていました。長男とワシントンDCまで行って、一緒に集会に加わったりもしましたね。ベトナム戦争だけでなく、自分自身の戦争体験もあり、アメリカには疑問を感じていました。カナダには、その前に何回か家族で来ていて、海のそばに住むのは夢だったし、まあ、いいんじゃないかということで、プリンス・エドワード島に引っ越したんです。友人たちは、私のライフ・スタイルが大きく変わったことに驚いていたが、自分にはそれほど変わったという意識はなかった。ときどきアメリカに戻って写真を撮ったり、イギリス女王が島を訪れたときはオフィシャル・フォトグラファーに任命されるなど、写真と牧場の仕事をしばらくは両立させていました」

--- その後、なぜ、モントリオールを選ばれたのですか?

「私はヨーロッパでもどこでも良かった。ただ、このときも、結局は子供にとっていいところを選びました。妻はフランコフォンだしね。でも、いまはモントリオールがとても気に入っているし、他のどこにも住みたいとは思わない。トロントにも住んだし、子供たちのうち3人はトロントにいるが、トロントはどうも好きになれないね」

--- なぜ、好きになれないのだと思いますか?

「多分、私が生まれ育ったニュー・イングランドを思い出させるからじゃないかな。オールド・ファッションで保守的な」
「でも、モントリオールだって、もし気に入らなくなれば、またどこか他のところへ移ればいい。いまは、どこにいても、簡単にどことでも連絡がとれる。先日のある日、スペインとオーストリアと日本にメイルを送ったら、2時間後には返事がきた。素晴らしいよね」

--- もともとカメラはメカニカルなものだったのが、いまはエレクトロニカルになっています。スキャンしてメイルで送ることも、データとしてコンピュータに保存・管理することもできる。この変化についてはどう思われますか?

「(才能のある人が)いい仕事のできる機会がふえたと思う。ただ構えれば、いまはフォーカスも露出も完璧にカメラがやってくれる。テクニックはいらない。デジタル・カメラを使えば旅先でフィルムの心配もいらない。そうなると、“何を撮るか”が重要になってきます。教育された良い目と、繊細な感受性が必要です。何を撮り、対象にどう反応し、どう構成するか。たとえば、私自身はポジティブな性格だが、ネガティブな人が素晴らしく暗いイメージの作品を撮るのならそれも良し。そういう個性的なイメージを作り上げるために、テクノロジーは力を貸してくれます」

--- 21世紀のはじめは、伝統的な写真の最後の時代になるだろうだとおっしゃっていますね。

「正直言って、本当に心配しています。たとえばフランス製の印画紙があって、この紙は本当に美しい。今はまだ手に入るが、もうしばらくしたら製造されなくなってしまうかもしれない。需要がなければ、消えていってしまうでしょう。現像液は自分で作るし、フィルムはどんどん精緻になっている。が、紙はいつまであるかという実際的な問題があります」
「でも、長くはない写真の歴史のなかで60年間働いてきて、どの時代にも独特のカラーがあると感じています。私はもちろんまだ写真を撮ることをやめはしないし、フィルムと紙がなくなれば、デジタルで撮るよ(笑)」

--- ところで、ジョン・F・ケネディ大統領の写真の著作権をめぐって、ニューヨーク・タイムズと闘った一件がありますね。(ジンベル氏がパリに出張中、ニューヨーク・タイムズに掲載された自分の写真が売りに出されているのを発見。この写真に関するすべての権利は撮影者にあり、タイムズには勝手にコピーしたり売ったりする権利はないと主張し、写真の返却を要求した。これに対してニューヨーク・タイムズ側は反論し、最終的に写真はジンベル氏の手に戻ったが、一連のやりとりは公表された)

「あれは、著作権というより所有権の問題でした。彼らの弁護士はタフで、その理論や物言いには、かえって笑ってしまうくらいだった。あのやりとりは、友人にすすめられて公表したが、私は良かったと思っています。いろんな議論を呼んだからね。現在、ニューヨーク・タイムズに限らず、クライアントとなるメディアは、フリーランスの写真家に仕事を発注する場合、写真の権利はすべてクライアントに帰属するという契約にサインをさせる。これに同意しなければ、仕事はもらえないわけです。フリーランスで働いているフォトグラファーには、難しい問題です。妻も子供もいて、生活のために仕事は必要だが、年をとったときのことも考えておかなければならない。たとえば、私がずっと昔に撮った写真が、新たにポスターなどに使われるとする。自分に著作権があれば使用料が入ってくるが、権利を渡してしまっていれば、作品を使われるだけで収入はない。私は、長年ニューヨーク・タイムズと仕事をしてきた者として、昨今の彼らのフリーランスの扱いを非常に残念に感じています。問題が一段落した後、トップと個人的に話をしましたが、<時代は変わったんだ>と言われました」

--- いま、情報はあふれているけれど、何をしていいのかわからない、あるいは迷っている若い人たちに、メッセージをお願いします。

「君がやった仕事を、誰かが気に入らなくても、気にすることはない。私の場合も、みんなが良くないといった作品が、いまは美術館に展示されていたりするからね。何か、それをしていると幸せになれることがあるなら、それをもっとやればいい。これは、私が父親として子供たちに言ったことでもあります。“これをしなければいけない”じゃなくて、好きで上手にできることが何かあるなら、やればいい。結果、私の子供には、音楽をやっているのもいるし、シェフもいる」

「本当はもっと暗室にいなきゃいけないのに、コンピュータの前に座りすぎているのが問題だ」と笑うジンベル氏は、「私がやっているのは、発掘作業です」と最後に言った。膨大な量の古いネガ・フィルムのなかから、まだ一度もプリントしたことのないひとコマを取り出して、焼き付ける。ときには素晴らしい発見がある。
 テレビは見ないが、新聞を読んで夫婦でディスカッションをするのが好き。書くことにも興味があり、本の執筆を計画中。ライターの奥様との仲むつまじい様子は、インタビュー中にかかってきた電話のやりとりからも十分察せられた。
 各地での展示に加え、現在、日本での個展も企画されている。機会があったら、美しい紙に焼き付けられた「ドキュメンタリー」を目にしてほしい。

ジンベル氏のイベントスケジュールはこちらをご覧下さい。

取材・文:関 陽子
当ホームページ内の画像・文章等の無断使用、無断転載を禁じます。すべての著作権はFROM MONTREAL.COMに帰属します。情報の提供、ご意見、お問い合わせは「左メニューのCONTACT」よりお願いします。
Copyright (c) 1996-2007 FROM-MONTREAL.COM All Rights Reserved