シルク・デュ・ソレイユは、カナダが世界に誇るパフォーミング・カンパニーである。サーカスを基調に、演劇やダンスの要素も取り入れた独特の世界を構築。サーカスにあって動物を一切使わず、あいさつ以外には言葉もない。人間の創造力と、訓練された肉体のなせる技、その両方が、美しい音と光の射す空間に凝縮される。1982年、ケベック州の小さな町で、大道芸のフェスティバルが催された。このイベントを企画した小さなグループが、シルク・デュ・ソレイユの前身である。それから20年たらずの間に、彼らは2100人の社員を抱える一大企業に成長した。現在、7つの作品を世界各地で同時に上演。ラスヴェガスで最もチケットの取りにくいショーの1、2は、『o』と『Mystere』、とちらもシルク・デュ・ソレイユの作品である。また、フロリダで人気の『La Nouba 』は、ディズニー以外の作品がディズニー・ワールドで公開された初の例。『Saltimbanco 』は、日本をツアー中。今年1年間の観客動員数は、推算でおよそ600万人。1984年からの総観客動員数は、すでに3千万人を超えている。

 誕生以来のメンバーであり、すべての作品の照明デザインを手がけている、リュック・ラフォーチュン氏に話をきいた。

「僕がシルク・デュ・ソレイユに参加したのは、他に仕事がなかったからです。(笑)1984年という年は、ジャック・カルティエがカナダを「発見」して450年。ケベック州政府はそれを記念して、いろんなイベントを計画しました。そこへ、当時、ベイ・サン・ポール(Baie-Saint-Paul)という町で、ストリート・パフォーマーたちのグループを率いていたギ・ラリベルテとダニエル・ゴーティエが、ツアーをやりたいという企画を持ち込んだ。それが通って政府から補助金をもらい、テントを買って、ツアーの準備が始まった。シルク・デュ・ソレイユの誕生です。

 僕は当時、コンコーディア大学の演劇科を卒業したところだったんだけど、大学時代の仲間でギル・サンクロワ(『シュバル・シアター』のクリエイター)が、シルクにパフォーマーとして関わっていて、ツアーに出るために音響や照明のテクニシャンが必要だから、一緒に行かないかという話をしてきた。彼とはとても気心の知れた間柄だったので、僕はこう言いました。「are you crazy? 俺たちがやりたいのはサーカスじゃないだろう!」(笑)というわけで、ふたりしてモントリオールの劇団や劇場に、たくさん履歴書を送ったんだけど、どこからも返事さえもらえなかった。それで、仕方なく、「サーカス」に参加したんです。ツアーは11週間と決まっていたし、まあ、しょうがないかという感じでね」「ツアーで最初に泊まったところはユースホステルで、トラックも機材もレンタルで、なんというか、ユースホステル的なクオリティを持った団体でしたね(笑)。コミューン的な、というか。OK、いっちょやってやろうぜ、っていうノリがあった。1週間ごとに別の町に移動して、金・土・日とショーをやって、日曜日の夜中から月曜日にかけて撤収、火曜日は移動、水・木と金曜日の昼間は新しい会場の仕込みで、金曜日の夜にオープニング。それを11週間やった。それはそれは、素晴らしい経験でした。それが最初」

--- ロサンジェルスで行われたアート・フェスティバルに参加したことが、道を開いたという感じですが、これは大いなる挑戦でもあったとか。

「87年の9月ですね。当時、シルク・デュ・ソレイユにはお金がなかった。でも、このフェスティバルには参加する意義があると判断して、旅費や滞在費、機材の輸送費をかき集めたら、それこそまったくの一文無しになってしまった。これがだめだったら、もう先はない、という状態。そこで、ギ(ラリベルテ)はひとつの賭けにでたんです。彼は「ひとつだけお願いがある。僕らのショーをフェスティバルのガラ・オープニング・ナイトに入れてほしい」と、主催者に頼みこんだ。初日は各メディアで大きく扱われる。ただし、結果が不評だった場合には、大打撃を受けるというリスクもある。そういう賭けです。幸い主催者側はそのリクエストを受けてくれた。そして、オープニングの夜に上演した翌日、テントに向かうと、15人くらいの人がシルク・デュ・ソレイユのチケットを買うために並んでいた。それを見たときのうれしさといったら! それからですね。最初の成功によって、次のショーを作ることができ、また次の作品ができ、成長し続けて、現在に至っています」

--- シルク・デュ・ソレイユに関して私がとても興味を持っているのは、アートとビジネスの両立、あるいは融合といった部分です。ひとつひとつの作品は、アーティスティックなこだわりを持って作られているけど、その展開のしかたは巨大なビジネス。シルクのコンセプトをテーマ・パーク化したリゾート開発の話があるかと思えば、発展途上国の子供たちに夢と目的を与えるためのワークショップを、30カ国で開くといった社会活動も行っている。これだけ国際的に舞台を広げながら、モントリオールというコミュニティーへの帰属意識も強い。そのバランス感覚が素晴らしい。

「自分たちがどこから来たか、これまで何をしてきたか、なぜこんなことをやっているのか、ということを考えるのは大事だと思う。シルク・デュ・ソレイユの活動には、常にそれを思い起こさせてくれるところがあります。お客さんはビジネスを見に来るんじゃない、エンターテインメントを期待して来る。僕らは人間で、彼らも人間。観客がそれぞれの人間的な感情を投影できるような楽しみを、僕らは提供したいと考えている。規模が拡大したために、もし人間らしくないものが現れたら、お客さんは来なくなるでしょう」

--- シナリオなしで、クリエイター同士の意見の交換によって作品を作り上げていくそうですね。

「制作の過程はとてもエモーショナルで、生々しい緊張感にあふれています。どんな作品も、簡単には生まれない。もし、何の問題もなくスムーズにできあがったものがあるとすれば、それは退屈なものに違いない。僕らがショーを作るときには、まず、「観る人に何を伝えたいのか、みんなと何を分かち合いたいのか、何が僕らにとって<いま>大切なのか」ということをまず話し合います。監督も、衣装デザイナーも、プロデューサーも、それぞれの仕事の立場ではなく、ひとりひとりの人間として意見を交える。いくつものトピックを選んで話し合う。演出に結びつく話題もあるし、その場は盛り上がるけどそれっきりという話題もある。何か僕たちの気持ちを動かすトピックが登場したら、それが新しいショーの創作のとっかかりになる。最初に出てくるのは、僕ら自身の一部です。特殊効果や派手な仕掛けじゃない」「シルク・デュ・ソレイユの成功は、そういうアーティスティックな視点とアプローチによるものだと思います。文化や背景の違うさまざまな国で評価されているのは、根本的に<人間>の心や感情にアピールするものがあるからだと思う。そして、ビジネス的な成功があるからこそ、新しいショーも作れるし、さらにクリエイティブな挑戦もできる。芸術的に妥協しないことと商業的な成功は両立しないとよく言われるけど、僕は、両立すると考えています」

--- <人間>ということでいえば、サーカスの場合、肉体としての人間の能力に驚かされる部分もありますね。

「シルク・デュ・ソレイユのパフォーマンスは、ひとつひとつの演技をとってみると、他のサーカスでも見ることのできる伝統的な芸なんです。でも、それらを演出や音楽、衣装、すべてのデザイン・ワークによってまとめあげ、独自の世界に仕上げている。それがユニークなところですね」

--- ユニーク、ということで言えば、『O』の「ステージ」につきますね。150万ガロン(約560万リットル)の水を使ったアイデアが、最初に飛び出したとき、みんなの反応はどんなものだったのでしょう?

「最初のアイデアと、現在上演しているものはかなり違っています。当初はサッカーフィールドくらいの(人口)湖で、ジェット・スキーやスピード・ボートを使うアウトドア・ショーという形で進めていました。問題は、確かに派手でおもしろそうだし、いままでやったことのない実験ではあるけれど、だから何なんだ? ということだった。そこへ、監督のフランコ・ドラゴンと舞台デザイナーのミシェル・クレイトが、大変興味深い意見を述べて、それまでのアイデアを全部ひっくり返したんです。彼らはまず、「我々はラスベガスという砂漠のまんなかにいる」と言いました。「砂漠における水の存在とは何か? 欠乏し、求められている大切なもの。生きるために必要不可欠な命の水だ」と。「その砂漠の水を大道具・小道具扱いにして、ジェットスキーでパフォーマンスだって?! 違う! そんなの、ある種の冒涜じゃないか!」それで、何もかも変わってしまった。それまでのプランを却下して、水を大道具として扱うのをやめ、主役のような立場を与えた。そして、役者には住まい(it's own home)をあてがうべきだ、というわけで、あの特別な舞台ができた。だから、最初に静かに幕が開いて、そこには水だけがあるっていうのは、まず、主役を皆さんに紹介しているわけです。これは、シルク・デュ・ソレイユのアプローチを表す、いい例かもしれないね」

--- どんなところからアイデアを得ることが多いですか?

「音楽や、アートや写真からもインスピレーションを受けますが、いちばんインスパイアされるのは日常的な生活です。世の中で何が起こっているかを知るために、目を向け、耳を澄ませている。すると、何もないようなところから、素晴らしいインスピレーションを得ることができる。セミナーなどに招かれたときに話すのは、もし、デザイナーになりたかったら、劇場の外に出ろ、ということ。劇場のなかで機材を相手にしていたら、テクニシャンにはなれるがデザイナーにはなれない。外に出て、人々がどんなふうに生活しているか、その現場を自分の目で眺めて来い、と言います。たとえばスープ・キッチンでボランティアをすれば、Lifeとは何か、という答えに一歩近づけるかもしれない」

--- いま、特に興味をもっていらっしゃるのは?

「個人的に今いちばん熱心に取り組みたいと思っているのは、本を書くこと」

--- 技術的な内容ですか、それとも経験をつづったもの?

「経験のほうです。どうして、こんな方法で僕はデザインするんだろう?ということ。僕は、自分のやりかたが正しいなどというつもりは毛頭ない。ただ、僕はこういうやりかたでやってきて、うまくいってる。それを経験として書きたいと思う」

--- もともと書くことに興味があったのですか?

「ないよ、全然ない。(笑)ただ僕は、<知識>というものは、誰にも所有されるべきではないと思っています。知識や経験を自分だけのものにするのは、最もつまらないことじゃないかな。広げて、次に伝えていくことこそが、意味のあることなんじゃないのかな。コンファレンスやセミナーで、よく、本を書かないのか、教えないのかと聞かれて、興味はないと答えていたけど、何度もそういう質問を受けるうち、彼らは知りたがっているんだということに気がついた。だったら、書いてもいいんじゃないか、と。特に最近感動したのは、去年の10月、ラスヴェガスでコンファレンスがあってね、そこに参加した人たちのほとんどは、『o』を観るのが目的で来て、すでに観ていた。ところが、参加者のなかにチケットを買うお金がなくて、まだ見ていないという女性がいた。僕はちょうどその夜のチケットを何枚か持っていて、当然僕は何度も見ているわけだし、あげるから友達と一緒に行けば、とすすめたんです。しばらくして美しい手紙が届いた。彼女はずっと、ライティング・デザインに興味を持っていて、でも「ほんの少し開いたドアの隙間から、こぼれる光を眺めているようなものだった」と書いていた。もっと見たいという気持ちがあるのに、勇気がなくて、ドアの後ろにいた。そこに僕が来て、彼女のために大きくドアを開けた、と。その手紙を読んで、本当に感動した。そんな人がひとりでもいてくれるなら、書いてもいいんじゃないか、と思った」

--- ところで、大学では心理学を勉強していらしたんですよね?

「あぁー(笑)。心理学の学位を持っています。信じられる?」

--- 信じられますよ。感情とか、イマジネーションとか、人間に対する興味・・・心理学の実践じゃないですか。

「確かにそうだね」

--- いま、心理学を勉強していた頃のことを、どんな風に感じますか? 当時は机上の学問で、今は経験そのものという違いがあるわけですけれど。

「僕は多分、人々がどんな風に感じるのか、ということにいつも興味を持っていたし、人に気を遣っていた。家の中では家族の間に、やはりそうした気配りがあった。心理学に興味を持ったのは、きっと、誰かを助けたいということだったんだと思います」

--- セラピストを目指していた?

「そう。苦しい状況にいる人を、救う助けになれればと思っていました。でも、5年間勉強して、最後の3年は、僕のやりたいこととは違うということを感じさせられただけ。どんどん医学的なアプローチになっていって、脳の化学物質がどんな反応をもたらすとか、どんな薬で鬱状態を改善するかとか、そんなことばかり。人間的なものから離れているように思えて、僕には向いていないと感じた。それで方向を転換したんです」

--- でも、人間に対する興味という点では、つながっていますよね。文学作品にせよ、舞台芸術にせよ、素晴らしい作品には癒される。

「うん。すべて美しいものにね」
「でも、いま<心理学>と聞いて思い浮かべるのは、僕が心理学者にはならずに演劇をやると報告したときの、両親の顔に浮かんだ表情(笑)。」

--- しかも、その次はサーカスだった。

「サーカス!!(笑) その後、何年も、きちんとした仕事は得られなかったし、シルク・デュ・ソレイユのツアーは1年のうち半分くらいだったから、それ以外の間は小さな仕事をあっちで見つけ、こっちで見つけ、ときにはドアの前で帽子をもってお金を集め、みんなで分けてひとり5ドルにもなれば、ビールを飲みに行けると喜ぶような生活だった。父親は航空業界にいて、飛行機の操縦を教えていて、母はモントリオール警察の秘書をしていた。ふたりともアートには縁のない人たちで、家で音楽をかけることもない。なのに、僕も、妹も、アーティスティックな仕事に就いた。これは不思議だね。妹はカナディアン・グランド・バレエのバレリーナとして17〜18年間活躍しました。今は、教える立場になっています」

--- いまでは、息子の活躍ぶりを、誇らしく思っておられることでしょうね。

「でも、両親が僕に対して、いちばん誇りをもっていることはなんだと思う?日本にいようが、アルゼンチンにいようが、僕が2週間に一度は必ず電話をすること。(笑)いくつになっても、父や母に元気だよと伝えることは大事だし、毎回違った場所から電話するたびに、両親は感激してくれる」

--- ご両親は、作品を全部ごらんになっていますか?

「ええ」

--- 感想は?

「「ふーん」とか、「まあ、おもしろいわね。二度と見たいとは思わないけど」みたいな。(笑)」

--- さて、表現の自由があり、仲間に恵まれ、ビジネス的な成功を得て、人に影響を与える力もある。自分自身が成長できる環境でもある。テクノロジーの進歩に伴って、ワイルドなイメージを具体化することも、どんどん可能になっている。アーティストとしてほしいものはすべて手に入れた、というような状況で、これから10年後をイメージしたとき、どんなふうになっていたいと思われますか?

「難しい質問だなあ。(しばらく考えて)漠然としたイメージはあるんだけど、言葉にはうまくできない。ただ、若いデザイナーや学生が、みんな僕の電話番号を持っていて、何か困ったことや話したいことがあったら、いつでも相談できるような状態になっていたらと思いますね」

--- クリエイティブ・ワーク専門の911?

「そんな感じ。そこから自分が得るものや、やりがいはすごくあると思う。ライティング・デザインに関しては、相変わらず旅をしていたいし、いろんな人といろんな経験を分かち合いたい。デザインそのものについては、10年後の僕の仕事が、人々に、20歳の新鋭が作っているんじゃないか、というような印象を与えられれば最高です。いつまでも新鮮でありたい。自分の型(スタイル)をあえて作らずにいたい。自分を自分自身の型にはめてしまうことは、絶対にしたくない」

 太陽は、地球が回り続ける限り、世界のどこかで昇り続ける。太陽のサーカスは、いまこの瞬間も、世界のどこかで幕を開け、人々の心に光を投げかけている。この素晴らしい存在が、モントリオールという街から生まれたことが、とてもうれしい。

シルク・デュ・ソレイユ



取材・文:関 陽子
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