西川園代さん。舞台芸術の照明デザイナーである。東京出身。芝居の好きな母、映画の好きな父のもと、子どもの頃から商業演劇に親しんだ。女優になりたいという憧れを抱くことはなかったが、あるとき舞台に置かれた船がぐるぐる回る場面があり、「ん? まてよ」と10代半ばの彼女は気がつく。カーテンコールで俳優たちが花束を受け取る姿を眺めながら「あれは、この役者たちが動かしていたわけじゃないんだ」と。黒い幕の後ろにも、拍手を聞きながら満足している人たちが、実は存在しているのだということに、このとき初めて思いあたった。まだ「裏方」と呼ばれる仕事の種類も内容も知らなかったが、「かっこいいなと思った」と言う。それから二十数年を経て、西川さんはモントリオールを拠点に、北米各地やヨーロッパ、日本を飛び回るフリーランスの照明家として活躍している。「外国人」であるひとりの日本人女性が、自分の力で次々にチャンスを手に入れ、実力を認められて先へ進んでいく、鮮やかな物語。美術館のカフェテリアで話を聞いた。

「悪いことは言わない、やめなさい」

 19歳、短大生だった彼女は、縁あって故・大庭(おおば)三郎氏の主宰する大庭照明研究所の門をたたいた。大庭氏は、戦後まもなくブロードウェイで研修。帰国後は「屋根の上のヴァイオリン弾き」「マイ・フェア・レディ」などのミュージカル作品を手がける一方、実験的な手法も追求した人。氏はいち早く女性の感性を評価し、研究所は当時、女性が多いことでも有名だったらしい。「最初にそこを訪ねたとき、最初から最後までいわれ続けたのは「やめなさい」でした。でも、それだけ「やめろ」と言われると、それこそがテストなのだろうと大きな勘違いをして(笑)、「やります」と」。照明デザイナーというのは、舞台で表現される作品において、会場の規模や設備を考慮しながら、照明効果による演出を行う仕事である。たとえば演劇の場合には、まず台本を読んで作品を解釈し、デザインのアイデアをまとめて図面を引き、機材のセッティングや調整を管理する。デザインが完成した後は、舞台でのリハーサルに立ち会い、微調整を行う。こうして仕上げた光の動きは、コンピューターにプログラムされ、実際の上演期間中はオペレーターによって操作される。そして、演劇以外にもさまざまな「舞台」がある。

 見習いとして「何もわからないまま物を運んだり」することから始め、オペレーターやデザイナーのアシスタントを務め、4年が過ぎる頃には仕事のおもしろさもわかってきた。そして、「伝統芸能、ダンス、ミュージカル、オペラ、コンサート……。それらを30歳までに、ひと通り経験しようと思っていたので、新しい会社(ステージ・ファクトリー)に移りました。ここではより幅の広い仕事ができましたが、27歳ぐらいになったとき、会社の名前を除いたら、<これが私です>と出せるものがない自分に気がつき、ものすごくあせって、考えて、28 歳で独立しました」。時を待たず、西川さんの力を試す機会はやってきた。演出家・宮本亜門氏のミュージカル『I Got Merman』の照明デザインを依頼されたのである。当初は宮本氏の自費で上演にこぎつけたというこの作品は、後には日本全国で多くの人々を魅了するヒットとなった。西川さんはその舞台照明により1988 年、日本照明家協会賞の新人賞を獲得した。

相手が変わらなければ、自分が変わる。

「最初は<何でこんなことをやってるんだろう?>の連続でした。特に20代の前半はそう。他の女の子たちはきれいな格好をして、陽のさんさんと射す場所で楽しんでいる。自分は劇場の暗がりでホコリにまみれ、手には軍手をはめて働いている。東京にいて、栃木の会場で翌朝9時開始の仕事なら、5時ごろに家を出ます。夜の12時すぎまで働いて家に帰ると、眠る間もなく翌日は群馬とか。自分の時間なんてまったくなかった。毎日、睡眠時間が2時間ぐらいしかなくて、そんなことが1週間ぐらい続いたある日のことですが、目覚まし時計が鳴って午前4時くらいに起きたとき、ただただ涙が流れてきてしょうがなかったという経験があります。悲しいとか、つらいとかいう何の感情も出てこないのに、感情より先にただ涙がぽろぽろぽろぽろ…(笑)。」

舞台裏の仕事は今でこそ女性の参入もめざましい分野だが、当時は圧倒的に男性の職場であった。女性であるがゆえの困難も、少なからずあったに違いない。

「私の仕事に限らず、この世界全体が男性側の立場で作られている。それがいまではわかっています。単に女性であることが理由で、不本意な思いをすることは確かにありましたが、私はそこにとどまっていたくない。そして、相手が変わらなければ、自分が変わるしかないんです。で、自分が変わるとはどういうことかというと、男性主体に考えているその人たちにも有無を言わせない実力を自分につけていくこと。仕事の結果で彼らを納得させる、プロのレベルできちんと仕事をするという方法でしか、太刀打ちできないと思い知らされたことは、逆に発奮させてくれる要素にもなりました」

 1990年から1992年にかけては、日本文化庁が芸術家の活動を奨励する目的で行う在外研修制度に参加を認められ、ロンドンで研修生としての2年間を過ごす。英国国立劇場やロイヤル・オペラ・ハウスをはじめ、世界に名だたる舞台の現場で、著名な照明家の仕事を目の当たりにした。「基本的には、日本もイギリスも変わらないと思いました」と彼女は話す。「むしろ、技術的には日本のほうが優れているかもしれないとさえ思う部分もありました」もうひとつ、イギリスで強く感じたことは「作品があってこその照明」ということ。「作品そのものの素晴らしさを、<たかが照明>は一部で支えているにすぎない」。もともと客観性が要求される仕事で、この認識はむしろ、<されど照明>というプライドと、前向きな意識を含む。

転機

 イギリス滞在中には、さらに大きな転機があった。ケベックが世界に誇る演出家、ロベール・ルパージュ氏との出会いである。「彼がロンドンのロイヤル・ナショナル・シアターで、『真夏の夜の夢』を上演するため、ワークショップを行っているという記事を新聞で読んだとき、ものすごく惹かれるものがあり、「この人がやろうとしていることが、全部わかる!」というほどの感動を得ました」この運命的な「出会い」のあと、直接彼に会う機会も得た。それから2年後、東京でルパージュ氏に再会した西川さんは、唐突と言っていいような形で、広島を舞台にした『太田川の七つの流れ』という作品の照明デザインを依頼される。ルパージュ氏は、それまでの彼女の仕事を一度も目にしたことがなかった。

「最初は、ケベック・シティでの公開リハーサルにいらっしゃいということで、何の説明もなく航空チケットが送られてきました。台本を送ってほしいと思っても、即興とディスカッションによって少しずつ作り上げていく手法だから台本はない。どんな劇場で、機材はどうなっているのか図面を送ってくださいと言っても、送って来ない(笑)。それで、とにかく行ってみたら、元ディスコという古いスペースで、「いったいこんな状況で私に何をしろというのだろう?」とショックを受けました。みんなが話していることも、フランス語だから全然わからないし。こんな悪条件の中で、私の照明家としての実力を評価されてしまうのかと思ったら、私は泣きましたけど(笑)、とにかく1週間は稽古を眺め、それから実際にデザインを始めました。そしたら、ひとつ明かりを出すたびに、反応がすごい。みんなが喜んでくれるし、特にロベールとの間には、とても刺激しあう部分があって、私が「こんなのはどう?」と提案すると、彼が「じゃあ、こんなのは?」とひっくり返して戻し、「じゃあ、私は……」というふうに、どんどんイメージが膨らんでいきました」

『太田川の七つの流れ』は、初演から3年をかけ7時間の作品として完成。この作品の照明デザインによって、西川さんは、1996年、トロントの栄誉あるドラ・メーヴァー・ムーア(Dora Mavor Moor Award)賞の優秀照明デザイン賞(Outstanding Lighting Design)を受賞した。『太田川…』の3年にわたるプロセスは、カナダという国や人々を知る機会にもなった。「ロンドンで受けた自己変革」に加えて、「まったく違う自己変革、意識改革があった」と言わせる経験でもあった。1996年、国際交流基金のフェローシップ・プログラムによって、当初は2年間の予定でモントリオールへ。北米最大のフランス語劇団・Theatre du Nouveau Mondeの舞台照明を手がけるなど、西川さんの世界はさらに広がった。

モントリオール

「もともと、アーティストが住みやすい場所だなとは思っていました。アートで身を立てていくというのは大変なことですが、そういう経済的な部分でも、まず生活しやすい。それに加えて、街の人たちのアートに対する理解度というものが、ものすごく深い。ヨーロッパ、特にイギリスの排他的な演劇界を目にした者の目から言えば非常にフレキシブルで、外国人である私を異端者として見ず、自然に受け入れてくれるところがあります。演劇に関して言えば、ここには伝統とか歴史というものがないわけですよね。イギリスのシェークスピアやフランスのモリエールに代表されるようなものがないから、新しいものを生み出して先へ進むしかない。でも、逆にそれが素晴らしいところであって。発想が自由で、タブーがない。モントリオールの演劇シーンからは、世界に誇れるものがどんどん出てきています。最先端のもの、実験的なものを創っていくということにおいては、ここには歴史があるわけです。最大の商業劇場でさえ保守に回らない。そういうここの演劇人たちの姿勢が私はとても好きで、ここにいることのひとつの大きな理由でもあります。アメリカのエンターテインメント、商業性・娯楽性といったものと、アートの融合が成り立っているというふうにも思いますね」

 創る側の姿勢も素晴らしければ、観る側の態度もそれにふさわしい。モントリオールの演劇ファンが、いかに熱心であるかを物語るエピソードを紹介してもらった。1998年の冬、アイス・ストームに襲われたときの話である。ある小さな劇場で公演が行われていたのだが、第1幕の終わり近くになって、ついに停電に見舞われた。すぐには電気が回復しないことがわかると、プロデューサーが観客の前に立ち、「ロウソクの光で続きを観たいか、別の日にあらためて最初からもう一度観るか」の選択を問うた。人々は「ロウソク」を選び、ガラスの筒に入った大きなロウソクに次々と火がともされるなか、じっと続きを待っていたという。「ここの人がすごいのは、雪が降ろうがやりが降ろうが、劇場に行くんですね。(笑)このときは、アイス・ストームという状況ですから、当日公演をやるかどうかの問い合わせもたくさんあったそうですが、「来てくれるんならやる」と答えたというんです。で、「じゃあ行く」といってみんな来た。(笑)大したものだと思いますよ」

 今後は、カナダ国内に「もっと仕事のフィールドを広げたい」と話す。最終的なゴールをたずねたら、「生涯現役でいたいなっていうのが、最終ゴールなのかもしれないですね」という答えが返ってきた。「杖ついてもやってるだろうなと(笑)」時間の隙間を見つけると、ボランティア活動にも出かけるという。「好きな仕事をして、独身で、何も自分を犠牲にすることがない。ときには見返りを期待せず、与えることも必要」というバランス感覚。ところが結果は与えるよりも「いただく」もののほうが多いと話す。華やかな舞台芸術の世界が光なら、彼女がボランティアに出かける先は、社会の影の部分かもしれない。その両方を知ることにより、西川さんが創る光は、深さを増してゆくのかな、と思った。




取材・文:関 陽子
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